森田お会いできるのを楽しみにしていましたので、本日はとてもドキドキ、わくわくしています。どうぞよろしくお願いいたします。
小儀こちらこそ、よろしくお願いします。
森田それでは早速質問を始めさせていただきたいと思います。まずは創業についてですが、 創業されて70年ということで、これは私にはまだまだ想像のつかない世界です。
小儀私の父が最初に始めた飲食店が、昭和18年(1943)に福島区に開業した甘党喫茶店なので、現在で71年目になります。それ以前は、私の3代前の小儀佐吉という方が明治時代に氷の販売をしていたんです。当時はまだ人工の氷はありませんでしたから、六甲山の山頂に冬の間に雪を溜めておいて、そこに水をかけて凍らせた氷を山から切り出してきて売るというわけです。そういった事業を行っていた関係で、氷を削る「氷削機」という機械の特許を取って全国に販売もしていましたし、冷菓のアイスクリームの製造と販売も行っていました。創業年の少し前の頃はまだ統制経済下で、食材、中でも特に砂糖は貴重品だったのですが、そういった事業を行っていた関係で砂糖の配給割当があったんです。その砂糖で小豆を煮て「餡」を作り、みつ豆に餡をのせて「あんみつ」として販売したところ、大変評判になって繁盛しました。それが弊社の外食産業の歴史の始まりですね。その後、現在大阪駅前第4ビルがある場所に路面店を借り、昭和21年(1946)に洋食店を開店。次いで昭和22年(1947)に心斎橋の宗右衛門町の入口に3号店として喫茶レストラン「心斎橋ミツヤ本店」を開業し、この3店舗が現在まで続く弊社の基礎になっています。
森田甘味からスタートされ、2店舗目に洋食店を開店させることになったきっかけは?
小儀父の時代の話なので詳しくは分かりませんが、私の父は仲間と一緒にダンスをしたり、ハイカラなものが好きな人だったので、当時は珍しかった洋食に引かれたんだと思います。その梅田の洋食店は、奥にバーカウンターがあったんですよ。「ウェイティングバー」というのでしょうか。食事する前に一杯飲むという、当時のアメリカで流行していたスタイルですね。これが普通の洋食屋だと思って作ったんだと思います。
森田 そうなんですか。氷にしても甘味にしてもそうですが、時代を先取りしていくような方だったんですね。
小儀そうだと思います。
森田小儀社長ご自身が外食産業で働くことを選ばれたきっかけは?
小儀昔から私は理科に興味がありましたので、大学は関西大学工学部化学工学科に入学しました。父は「将来、商売をするためには経済がいいのでは」と言ったのですが、実際のところ商売には興味がなかったんです。ですから、工学部を卒業してからは製薬会社に入社し、千葉県の市川市に住んで会社に通いました。製薬会社なので薬剤師が多かったのですが、私は理工系なので、工場を建設するなどの仕事を与えられました。
森田外食産業とは全く接点がありませんね。
小儀そうなんです。ですが、入社して半年ほど経った頃、父が胃がんにかかっていまい、その父から「万が一の時に困るから、家業を継ぐために大阪に戻って仕事を手伝うよう」言われ、急遽大阪に戻ることになりました。せっかく大学で勉強してきたことをそんなに早く辞めるつもりはなかったんですが、父の思いを酌んで帰ることにしました。
森田それはそれは、大変だったんですね。
小儀ですが、幸いなことに父の手術が成功し、大阪に戻ってからもすぐには会社を継ぐことはありませんでした。ですので、父からの「いきなり会社に入るより一度外で修行をした方がいい」というアドバイスを聞き、知人の紹介で神戸のオリエンタルホテルで1年半ほどお世話になりました。ホテルでは調理場と客席サービスの両方を経験させていただき、いい経験になりましたよ。
森田それが小儀社長と外食産業との出会いですね。
小儀それまでは包丁も握ったことがありませんでした。調理は全くの初めてですので、やっぱり抵抗がありましたよ。中学や高校を出てすぐに調理を始めたコックさんたちは優秀でしたので、私なんかよりもちろん上手ですが、この修行期間の経験は私にとって本当に大きかったですね。頭で考えることと実際の現場で起こることの間にギャップができることを身をもって体験することができました。当時のホテルは組合が強く、労使交渉などの話を聞きましたが、弊社にもすでに組合ができていましたので、これもいい勉強になりました。
森田それでは、ホテルを退社され、家に戻ってからは苦労などはございましたか?
小儀先程もお話しいたしましたとおり、いきなり入ったわけではなくホテルを経験していましたので、ある程度仕事の内容は分かっていました。家に戻ってからはしばらくは新店の店舗で調理係をやり、現場のコックと一緒に仕事をしました。この頃に思ったことは、自社の社員が素直だということと仕事熱心であるということですね。ホテルのコックと比べると技術やメニューの幅などのレベルは異なりますが、人柄のよさや仕事に対する責任感は勝るとも劣らないと感じました。最初は抵抗がありましたが、自社の社員の仕事ぶりを見ていると「自分の会社も大したものだな」と思えるようになりました。
森田小儀社長がそういう風に見ていたことはきっと社員のみなさんに伝わっていたんじゃないでしょうかね。
小儀そうかもしれないですね。気持ちの面では通じ合えたかもしれません。それから、本社に転勤することになり、事務所に電算機を入れて事務の合理化に取り組むなどの経験もしました。当時で正社員の数が200人くらいでしょうか。そして昭和45年(1970)、 大阪万博の年の阪急三番街店のオープンから、メニュー作りや社員研修、客席主任を経て、2代目の店長になりました。万博が春にスタートしてからは連日、三番街は大賑わいで、通路は人であふれ、調理係も客席係も大忙しの大変な毎日でした。また、万博の翌年には阪急三番街のヨーロッパ商店街提携視察団に弊社の常務と参加しました。北はデンマークから南はイタリアまで7ヵ国を訪問し、各国の商店街と提携して世界の外食産業への視野を広めることができました。
森田その当時の苦労はどんなことがあるのでしょうか?
小儀苦労といえば、当時はまだ自分が会社の2番手ではありませんでしたので、父が育てた古い番頭さんに気を使いながら仕事をしていたということでしょうか。でも、それは2代目の宿命とでもいいますか、よくあることですからね。自分の上司の番頭さんに認めてもらうことが重要ですが、これは時間はかかるものです。
森田小儀社長が先代から学ばれたこと、受け継いだことは何でしょうか。
小儀弊社の社是である「清潔・品質・誠実・サービス」の中にある、特に「品質」については、父が常に言葉にして社員や幹部に伝えていましたので、これが最も大きなことだと思います。父の後を継いでからは、私も常に会議の席や幹部の研修会で話しています。
森田それだけ常に意識していることなんですね。
小儀外食産業にとって、「品質」は「信用」だと思っています。新入社員が毎年入社してきますが、意識して繰り返し話しています。最近、食品偽装問題などが業界で話題になっていますが、これも「品質」に通じることだと思っています。また、先代がよく言っていたのが「美味は全てに優先する」という言葉で、これは未だに社内や店舗に貼っていますね。
森田地域活性化に向けての活動内容や想いをお聞かせください。
小儀私は、大阪の地下街「なんばウォーク」の商店街振興組合の理事長を拝命していますが、それぞれ独立した組織である「なんばCITY」、「なんばパークス」、「高島屋大阪店(大阪タカシマヤ)」、「マルイ」、「大丸」、「戎橋筋商店街」、「道具屋筋商店街」、「黒門市場」など、ミナミの多くの商店街が一体となって共に繁栄できるよう、年に数回「みんなでミナミ」の共通割引商品券を発行するなど、地域全体での来客を目指す催しを行っています。
森田そうなんですか。それはとても意義のあることですね。
小儀キタの「JR大阪駅ターミナル」や「グランフロント大阪」、「阪急百貨店本店」などでここ数年集客が進んだことや、「あべのハルカス」の開業をはじめとした天王寺・阿倍野エリアに流出したお客様を呼び戻すために行っていることですね。他にも、関西に観光に訪れる外国人観光客の方にミナミに来ていただき、食事をして泊まっていただけるよう、様々なPRも行っています。私は大阪商工会議所(大商)の議員をしておりますが、大商としても佐藤会頭が早くからインバウンドに注目され、「千客万来都市OSAKA」という新しいビジョンを打ち出され、観光に力を入れておられます。その考えには私も賛同しています。
森田それでは会社の中に話を戻させていただきまして、人材育成についてはどんなお考えをお持ちでしょうか。
小儀先代がそうだったということもあり、弊社ではいい人材に恵まれ、さらにその方々の力量を高めるために、社外の講習を利用したり、社内に講師をお招きしての社員研修に熱心に取り組んでいます。大きな費用をかけてでもそれを続けてきたからこそ、今日の我社があると思っています。これからは外食産業も成熟期を迎え、今後ますます競争の激しい時代に入っていこうとしています。今後も社員教育には特に力を入れていこうと思っています。
森田今後のビジョンについてお伺いしたいのですが。
小儀弊社は、喫茶軽食の「心斎橋ミツヤ」、セルフカフェの「カフェブレーク」、カレー専門店「ピッコロ」、レストラン「昔洋食 みつけ亭」を主要業態に、約40の店を大阪を中心とした関西地区で展開していますが、今後も新しい業態を開発し、拡大させていきたいと思っています。ですが、外食産業には時代によって波がありますので、スクラップアンドビルドしながら、絶えず変化をつけていかないと思っています。これまでに“スクラップ”した中には社員食堂、つまり給食などもありましたね。
森田今後展開したい業態などはありますか?
小儀今後、といいますか最近行ったことですが、なんばウォークの「ダジュール」というイタリアンの店をリニューアルして、「Pasta&Gohan KITCHENダジュール」という店にしました。パスタをメインに、和食の「一汁三菜」を取り入れたメニュー構成になっています。これをやって分かったことは、若い女性をターゲットにしていたにも関わらず、年配のご夫婦の方も来ていただいたことですね。玄米などのメニューが受けたんでしょうか。
森田小儀社長の思う、経営者にとって大切なことや小儀社長の信条は何ですか?
小儀現在の幹部は、私とともにやってきてくれた副社長の弟のほか、経理担当の常務など数人いますが、私も過去に経験したように、世代交代を考えなければならない時期にさしかかっていると思います。それには、自分から現専務の息子や現部長の次男へのバトンタッチに向けて、今後の協力者のブレーンを育てることが大切だと思います。人材はすぐに育つものではありませんので早くから準備しておかなければなりませんが、やはり企業においては「人=人財」だと思っています。
森田経営において信条とされている言葉はありますか?
小儀「人=人財」だからこそ、「一期一会」ですね。何事も出会いが大切で、これをいつまでも続け、増やしていくことが私の信条です。経営のためだけでなく、人生でも最も重要なことだと思っています。
森田それでは最後に、次世代に受け継いでもらいたいこと、それと期待することはありますか?
小儀社是である「清潔・品質・誠実・サービス」の実行と、経営理念に掲げた「お客様のご満足」、「高い理想への挑戦」、「社会への貢献」の3か条を守ってもらいたいですね。もちろん、それを実行するのは「人」なので、「人財育成」にも力を入れてもらいたいと思っています。これから社会環境や少子高齢化が進み、大変厳しい時代に入ると思いますが、常に時代の変化に適応できるよう、会社の体質も変化させながらやっていけば必ず道は開けると思っています。
小儀俊光氏
昭和40年関西大学工学部化学工学科を卒業後、製薬会社に就職。研究所にて薬の生産に従事。その後、父であり株式会社心斎橋ミツヤの初代社長が病気にかかったことをきっかけに帰阪。当初は神戸オリエンタルホテルに入社し、外食産業の基本を学ぶ。父の退任を経て代表取締役社長に就任。座右の銘は「一期一会」。
森田佳代子氏
平成21年3月創業、翔家フードサービス株式会社代表取締役を務める。「居酒屋 翔家」、洋風創作料理「羊の家」、「お好み焼・たこ焼・鉄板焼き 福えびす」、「らららのら~めん一豚力」など、多ジャンルの店舗を展開する。「素直・健康・感謝」の精神を行動指針とし、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の会社を作ることを目指す。